コードネームMONDAY 上巻 本文サンプル

「ブラックバード、どうしたの?」
 彼――サミュエル・ローレンスは、骨伝導ヘッドセットを介して聞こえてきた声に意識を戻した。彼の目の前にあるのは妻と息子の遺体ではなく、スコープを通して見た砂地獄だった。もうここは五年前のネオ・マンハッタンではなく、そこから遠く離れた、かつてはサンディエゴと呼ばれた地にある研究施設だ。過去に栄華を誇ったサンディエゴ湾はすでに干からび、大きな穴でしかなかった。温暖だった地も今は乾ききった荒野か砂漠となり、水は金よりも貴重なものとなっていた。ローレンスはパワードスーツに包まれた肉体を微動だにせず、スコープを物言わず見つめていた。汗や排泄物を自動的に飲料水へと変えてくれるスーツが、かすかな駆動音を立てて作動している。全身を覆い、体にフィットしたスーツにはさまざまなオプションパーツがつけられる機構がある。ゴツゴツとしていて、人間から黒い岩が生えているようにも見える。この機能が、ローレンスをさまざまな危機から救ってくれた。もはやなくてはならないものである。
 スコープの向こうには砂に埋もれた建築物が見える。かつて街だった場所にあった建物を再利用したらしい研究施設は、半分砂に埋もれていて廃墟にしか見えない。しかし彼はボスからもたらされた情報により、ここがヘヴンズ・ラダーの研究施設兼アジトだということを知っている。
「本当にこんな辺鄙な場所にあいつらがいるんですね、ボス」
「あら、このわたしを疑うの? 大尉どの」
 こんな砂漠には場違いの、艶めかしい女の声だ。この声の主こそローレンスのボスであり、世界の重要人物であるミス・ジェーンである。
 ジェーン・ミリタリー・セキュリティ。通称J.M.C。世界の中心ともいわれるネオ・マンハッタンという都市においてのみならず、広い北米大陸における輸送網の護衛を担っている民間軍事会社だ。
 大陸全土が不毛の地となった大戦から百年ほど。人々は残された遺構を活用した。貴重なものとなった水と物資の輸送に関する護衛や、街を襲う突然変異の動物たちの討伐。現代におけるバウンティ・ハンターと呼ぶものもいるが、ローレンスはいつも鼻で笑っていた。
 ネオ・マンハッタンは、ロング・アイランド湾に浮かぶウォーターフロントだ。かつてのマンハッタンは半島であったが、大戦による汚染で住めなくなり、人々は建設されたばかりだったウォーターフロントに居を移した。世界でも数少ない巨大な浄水施設や発電所が存在するネオ・マンハッタンは、人類の最後の砦と言われる。
 その中でも高度な作戦をこなせるエージェント。それがローレンスの職業だった。
「その呼び方はやめてくださいよ、ボス」
 呆れた声で嫌がるそぶりを見せると、ミス・ジェーンはふふふ、と笑った。完全に部下をからかって楽しんでいるという雰囲気だ。ローレンスは眉間にしわを寄せる。自分が大尉どのと呼ばれていたことなど、もう六年も前の話だ。
 六年前。ローレンスはこめかみをひくつかせた。六年前のクリスマス、通称フォールオブマンデイは、カルト教団ヘヴンズ・ラダーがネオ・マンハッタンの街において同時多発的に自爆したテロ事件のことだ。機能を寸断された街は地獄絵図となり、多数の死傷者が出た。大戦後における最大の人災といわれている。
 その渦中にいたミス・ジェーンとローレンスも、巻き付いて離れない蛇のごとく教団を追っていたのだ。六年かけてやっと尻尾を掴んだ。これは願ってもない好機だった。
「とにかく、あなたたちの任務はあの研究所にいる被検体を保護することよ」
「被検体……」
 ローレンスがつぶやくと、ミス・ジェーンはそう、とうなずくように言った。
「そう、サイキックに関するものよ。彼ら、どうやらそこで実験をしていたようね」
「なんのために?」
 ローレンスがかぶったヘルメットのバイザーに、走馬灯のように研究所内部の地図が展開される。地上四階立て、地下には礼拝堂があり、決まった時刻になると研究員含む信者たちはここへ集まる。対象がいると思われる場所は三階の最深部にある封鎖された区間である。
 ローレンスはそこでまじまじと目の前の建物を見た。外壁はボロボロで崩れており、基礎がむきだしの部分もある。こんなうらぶれた廃墟で、人体実験が行われているとは思えなかった。
 そこで、バイザーの別ウインドウに新しい画像が表示された。それは、まるで吊り下げられた塔のようなシルエットをしていた。
「天国への扉。人々はこれをそう呼んでいる。知っているわね?」
 ローレンスはうなずいた。
 この世界の遺構に、天国への扉と呼ばれる軌道エレベーターがある。南米大陸の赤道上にある大戦前の建造物だ。当時世界の覇権を握っていた大国が建造したもので、その頂上には世界中の神を統べる神がいるという。なんとも物語めいた話だった。しかし天国の扉には太陽光発電から得た大量のエネルギーがあり、これを得れば力を盛り返せると大戦を生き残った各都市――ネオ・マンハッタンやニューロサンゼルスは息巻いている。
 大きな力を持てば、過去の大戦を繰り返してしまうことは確実だ。それなのに人間は学習しないものだとローレンスはふと思ったが、彼は黙ってボスの話を聞いていた。
「天国の扉の頂上には、この私でも内部を観測できないブラックボックスのような場所がある。そこを我々は通常、ヘヴンズ・ガーデンと呼んでいる。あの教団どもはそこを神がおわす場所と解釈しているようね。そして、そこに至ることができるのは選ばれし人間だけだとも」
「その選ばれし人間とやらと、この任務がどう繋がるんです?」
「話は最後まで聞きなさい。教団はその選ばれし人間を集めているの。サイキックをね」
「サイキックを? でも、そういう連中は少数派でしょう」
 そう、死んだ息子のような。息子には、生まれながら心を読む能力があった。
 ローレンスは息をついた。ミス・ジェーンが話を続ける。
「生まれつき力の強いサイキックをオリジナルとして、複製を作っているらしいのよ。身寄りのない子どもを使ってね。あなたにはそのオリジナルの保護を頼みたいの」
 子ども。その単語に眉が上がった。脳裏にギターを抱く息子の死体が蘇る。
 ――なあ、ジュード。心配いらないさ……。
 守れなかった過去の自分を恥じるように、ローレンスはこぶしを握った。そして、手の中の狙撃用ライフルを構え直す。
「俺が断れないとわかって言ったのなら、相変わらず策士ですね、ボス」
「ヘヴンズ・ラダーをのさばらせるわけにはいかないのよ。そのためなら、あなたの良心だって利用してみせるわ。私はこの会社のボスだもの」
「それでこそボスですよ。そうと決めたら、最後まで俺を利用してください。最大限にね」
 ミス・ジェーンの笑う声がする。話を途切れさせるように、違う男の声が通信に割り込んだ。
「こちらペニーワイズ。準備ができたぜ」
「わたしはここからだと介入できない。武運を祈っているわ。始めてちょうだい」
「了解」
 ローレンスは返答し、ライフルを構える。
 十字型をした照準の真ん中に獲物を合わせる。砂だらけの門の前にいる見張りのひとりを捉えたローレンスは、そのまま引き金を引いた。銃から放たれた銃弾は百メートルほどの距離を貫き、見張りの頭に命中した。もう一度引き金を引く。もうひとりの見張りも倒れ、入り口には誰もいなくなった。定期連絡がくれば異常が察知されてしまうが、それはまだ先の話だった。
「いやあ、いつ見ても爽快だな、ブラックバード」
 同僚――マット・コリンズは、呆れたような声でローレンスのコードネームを呼んだ。黒い鳥。彼の崇拝する人々が歌うレコードの一枚から取った名は、思いのほか耳に馴染んでいる。
 仲間には返事をせず、ローレンスは体にかぶせていた砂漠用迷彩を解いて立ち上がった。長い間寝そべっていたので、迷彩柄の布には大量の砂が積もっていた。ざあ、と音を立てて砂が落ちていく。長距離射撃用のライフルを持ち上げケースに仕舞うと、それを傍らに置いてあるコンテナに入れた。コンテナは大きな鉄の箱のような形状をしており、大の大人が二人ほど入れるぐらいの大きさがある。迷彩柄で塗装してあるので、目立ちにくいのも利点だった。
 そしてコンテナを起動させ、側面のレバーを引いた。そのとたん、コンテナが浮遊して南を目指し飛んでいく。ローレンスの拠点であるトレーラーに飛んでいったのだ。過酷な環境でも動き、呼べばこちらの位置を察知して武器を届けてくれる、便利なコンテナだ。飛び去るコンテナを見送り、ローレンスは振り返った。
「突入する」
 砂に埋もれた墓場のような建物を見やり、ライフルを抱えて足を踏み出す。ここからは徒歩だ。お供はプロペラのついた監視用ドローンだ。
「ペニーワイズ了解」
 同僚がなぜピエロの名を選んだのかはわからないが、ローレンスは存外気に入っていた。通信ごしに聞こえる軽口は、まさに道化に相応しかった。
 流砂に足を取られないように走る。遮蔽物はほとんどない砂漠であるから、ぐずぐずしていれば見つかるかもしれない。監視カメラと防衛システムはドローンを介して、トレーラーにいるもう『一匹』の相棒が抑えているが、早いに越したことはない。
 近づいてきた研究所は側面がガラス張りの建物だったが、今やほとんどが砂に覆われていた。どうやら大戦前に建造されたもののようだ。見張りの死体を通りすぎ、ローレンスは入り口をくぐった。
 内部は外側から見た印象とは真逆だった。内装は白一色で、薄気味の悪い清潔感もあった。ところどころに飾られている塔のようなマークは、ヘヴンズ・ラダーの崇める軌道エレベーターと水を表す意匠だ。ちょうど今は礼拝の時間のはずで、人の気配は薄い。
(ここにいるのか)
 ローレンスは背負っていたライフルの安全装置を外し、構えた。心は不思議と凪いでいた。怒りと悲しみを通り越した先にある無我の境地だ。
「右奥に階段がある。そのまま上へ」
 コリンズの声がした。指示されたとおりに右の通路を走り抜け、階段を探した。途中で巡回中の見張りをやり過ごし、上階へと続く階段を発見する。コリンズがあらゆる手段を駆使して手に入れた研究所の地図は、すべて正しかった。まるで地獄の入り口にも思える階段を上がると、厳重に閉じられた大きな扉があった。IDカードを通すタイプの耐火扉だ。爆薬は持ってきていたが、それぐらいではびくともしないだろう。
「軍曹、頼む」
 ローレンスが、コリンズとは違う唯一の相棒に告げると、傍らで浮遊していたドローンが扉の前に移動した。見た目は十字のような形をした胴体部に、それぞれ四つのプロペラがついている。ローレンスの指示通りドローンは胴体部からアームを伸ばし、扉の端末部分に接触させた。少しの間があって、ランプが緑に変わった。がこん、と音を立てて扉が開く。ローレンスはドローンを伴って素早く侵入した。上のフロアは上階と違って砂はあまり入り込んでいなかったが、薄気味悪いほどの清潔感と無機質さは同じだった。いけ好かない場所だとローレンスは嫌悪の目であたりを見る。
 ――だが、あの男の墓場としては似合いだ。




「そこを右に曲がって、一番奥の部屋だ。では、陽動を始める」
「了解」
 ヘッドセットから聞こえるコリンズの言うとおりに、ローレンスは研究所の明るい廊下を音を立てず走っていた。建物の中は日光が入らないが、電気の明かりは煌々と灯っている。どこかに発電機があるのだろうか。ネオ・マンハッタンなどの都市以外の場所に発電機があるのはまれだ。どこかに浄水器か水もあるのだろう。教団の持つ財力がうかがい知れた。
 角を曲がる際、角度をつけて前方に敵がいないか確認しながら進む。監視カメラの前を通っても警報は鳴らない。ハッキングの成果か、監視は今ごろ改変された同じ映像を見ているのだろう。
 遮蔽物に身を隠し、ここでも巡回する見張りをやり過ごす。少しすると、下階から大きな爆発音がとどろいた。コリンズの陽動だろう。赤色灯がともり、けたたましい警報音が鳴り響く。見張りたちが焦りだし、全速力で音のしたほうに走っていくのが見えた。
 そろそろシステムを掌握している軍曹のこともばれてしまうだろうが、どうやらうまくいったようだ。ローレンスは周囲を確認し、遮蔽物から飛び出した。任務の遂行は迅速に。ローレンスはライフルのグリップを握り直し、足音を忍ばせて走った。音を立てず歩くことは、治安維持隊出身の軍人にしてみれば基本的なことだった。
 しばらくまっすぐ行くと、厚い金属製の扉があった。古い建物に反してここだけは真新しかった。部屋自体をあとでユニットごと付け加えたのだろう。分厚い扉は多少の爆薬や銃器ではびくともしないだろう。耐火材が充填されているであろう扉は、耐火性も十分そうだ。
 声をかけなくても、もう一匹の相棒は察したようだった。少しの間をおいて、重々しい扉のロックが解除された。丸いハッチのような扉が開き、ロック用の金属棒が伸縮して収まった。
 開いた扉に突入することはせず、壁際に背中をつけて内部をうかがう。人がいる気配はなかった。ドローンから何も合図はない。内部に危険がないことを確認し、ローレンスは部屋に足を踏み入れた。
 広い部屋だった。真っ白な壁を触ると柔らかかった。四方を弾力性のある壁で囲んでいるらしい。天井から青白い明かりが煌々と灯り、不気味なほどの清潔感を醸し出していた。床も柔らかく白い床材が張られ、まるで生活感はなかった。奥側にはもう一つ扉がある。事前に見た見取り図通りならば、そこは実験体の生活する区画だったはずだ。
 そんな部屋の真ん中に、等間隔で七つのポッドが設置してあった。強化ガラスの張られたボッドの中身はスモークがかかっていて見えなかったが、傍らのランプが示しているのは赤い色だった。ドローンに指示を出すと、簡潔な答えが返ってきた。――生命反応なし。
 脇にあるスイッチを押すと、しゅう、と音を立ててハッチが開いた。その中に入っていたものに、ローレンスは眉をひそめた。まだ十歳ほどであろう少女だった。息はすでにない。まだぬくもりが残っているので、死んでまもないのだろう。
 間に合わなかった。
 教団が子どもを食い物にしていることをわかってはいたが、胸糞が悪くなる。倫理観の欠如している人間だという自覚はあるが、やはりこんな子どもがいいようにされてしまうのを見るのは、心にくる。
 苛立ちまぎれにポッドを蹴り上げたとき、ドローンが警告音を鳴らしてローレンスの注意を引いた。彼が周囲に七つあるポッドを見わたす。七つのうち六つは赤いランプが点灯していたが、ひとつだけそうではないものがあった。緑色のランプ。ローレンスは奥から二番目のポッドに小走りで近づいた。これだけは生きている。ボスが回収せよと命じたのはこれだ。
 先ほどと同じように、スイッチを押してハッチを開ける。ひんやりとした空気があたりを曇らせる。霧が晴れた向こうにいたのは、少年だった。
 いや、青年にも見えた。おそらく十五歳程度だろう。少年から大人になる過渡期の子どもだ。黄みの強い肌はおそらく東洋人だからだろう。若さで張りがあるはずの肌は、乾燥でひび割れている。目は閉じられているのでわからない。こげ茶色の髪はざんばらの癖毛で、適当に切られているためか痛みがひどかった。医療用のガウンだけを身につけている体は、哀れを誘うほど細かった。砂漠で過ごしている子どもでも、もっと肉がついている。
 眠っているのか、少年は微動だにしなかった。まさか医者を必要とする状況なのか? ローレンスが少しだけ慌てて少年の首に指を当てると、脈動と連動するように少年の目が開いた。
 目蓋の向こうから現れたブラウン・アイを、ローレンスはとっさに美しいと思った。死んだ息子も同じ色の目をしていた。そして、こんなふうに力に溢れた目をしていた――
 考え事をしている暇はなかった。
 ローレンスと周囲を見た少年の目が、みるみるうちに怒気を帯びた。周囲に殺気のようなものがみなぎる。ローレンスの直感は、今すぐにそこから離れろと警告をした。持てる限りの素早さで後ろに飛び退くと、ついさっきまでローレンスの立っていた場所に、大きな音を立ててなにかが飛び込んできた。火花を散らしひしゃげたそれは瓦礫だった。部屋の壁が、巨人の手にもぎ取られたかのように曲がっている。瓦礫の下にあった小型端末は粉々になっていた。ローレンスはその瞬間に思考を切り替える。この子どもはサイキックなのだ。
「チューズデイを殺したのはおまえか」
 変声期を終えたばかりの、少し高い男の声だった。しかしその声色は、触れなば殺さんばかりの殺気を秘めていた。チューズデイが誰なのかは判然としなかったが、おそらく先ほどの少女のことだろうと察しをつけた。少年は怒りに満ちた声で続ける。
「みんな……気配を感じない。どこにもいない。呼んでも返事がない。でもみんなの体はそこにある。おまえが殺したんだな?」
「違う」
 怒りで我を忘れている人間に、長々とした弁解は通じない。ローレンスは簡潔に答えたが、少年の怒りは収まらなかった。
「嘘だ!」
「嘘じゃない。むしろ俺はおまえを助けにきた」
 少年は叫ぶが、ローレンスは毅然と対応した。少年はもう一度、嘘だ、と叫んだ。
「おまえたちはいつも嘘をつく。姉さんをどこにやった。姉さんを返せ!」
 「姉さん」が誰のことだかはわからないが、このままでは錯乱してしまう。コリンズの陽動も永遠ではないから、早くこの少年を連れて脱出せねばならない。ピリ、と周辺の空気がひび割れたようだった。今度は他六つのポッドすべてがひしゃげていく。いっせいにこちらへぶつけるつもりだろう。ローレンスは腹を括った。
 背負っていたライフルは投げ捨てた。少年の虚を衝いたらしく、その目が見開かれた。その隙に一歩を踏み出す。間合いに飛び込んだローレンスは、まだポッドに上半身を起こしただけだった少年の胸ぐらを掴んで揺さぶった。
「なにするんだ! 離せ、この……!」
 抵抗して手をあげかけた少年の額に、ローレンスは音を立てて頭突きをした。うっ、とうめき声が漏れる。ヘルメットごとぶつけたから、かなりの痛さだろう。
「いい加減にしろ、このクソガキ! 俺もろとも殺されてえのか。グダグダ言わずにさっさとついてこい! こんな胸糞悪い場所から出たいんだろうが!」
「なんでおまえと、みんなを殺したやつなんかと! それに、みんなや姉さんを置いていけない」
 ローレンスは胸ぐらを掴んだ手の力を強めて、至近距離で少年の目を見た。さっきまで怒りに満ちたその目が、少しだけ困惑の目に変わった。
「落ち着いて俺の目を見て、よく考えろ。おまえは今ここを出られる千載一遇のチャンスを得ている」
「ここから、出られる……」
 少年の声のトーンが下がった。駄目押しとばかりにローレンスは言葉を続けた。
「俺を信じなくてもいい。ただ利用しろ。見たところおまえはここから出たいんだろう? 大好きだった仲間を殺した仇討ちをするなら、ここを出てからでも遅くは――」
 ローレンスが言い終える前に、激しい頭痛が彼を襲った。
「ぐっ……!」
 それはほんの少しの間だけだったが、脳髄が握りつぶされるような激しい痛みだった。痛みが治まってから少年を見ると、彼はもう怒っていなかった。あどけない表情の裏側に見えたのは、虚をつかれたような目だった。
「本当に、嘘じゃないのか……」
「てめえ、俺の心を勝手に読んだな!」
 今度はローレンスが怒った。しかし状況が許さなかった。後ろのゲートからマスクをつけた兵士が突入してきた。教団員だ。
「被検体と侵入者を逃がすな! 逃がしては……うわぁっ!」
「ぎゃあっ!」
 サイコキネシスで宙に浮いたままだった壁の瓦礫が、猛烈な勢いで兵士たちの体に落とされた。ローレンスの元にも骨の砕ける鈍い音が響いたが、他人に構っている余裕などあるはずはなかった。放り投げていたライフルを急いで掴み上げ、少年の腕をとって先を促した。握った腕は不安になるほど細い。
「モタモタしてるからだ、早く来い!」
 少年は頷いて、素足を床につけた。一瞬だけふらついたがなんとか持ちこたえ、部屋を見回した。少年は足を潰されて床に倒れている教団員を見つけると、這っている男の進路を遮るように立った。教団員のつけるマスクを被った男を見下ろす様子は、百戦錬磨のローレンスですら背筋を寒くさせるものだった。
「姉さんはどこにいる」
 男は答えなかったが、少年はすぐに行動を起こした。空気が震えるような感触のあとに、男のもう片方の足がめりめりと音を立ててきしんでいく。部屋に野太い悲鳴があがった。
「おまえ、おれに手術した研究員だろう。よく覚えてる。姉さんの居所を知らないはずはない。答えないなら、おれより痛い目に遭ってもらう」
 少年の脅しに男は屈したのか、命乞いをするように叫んだ。
「あ、あの女はもうここにはいない! 別の場所へ連れていかれた! あとは知らない!」
 研究員の言葉を噛みしめるように聞いたあと、少年はこぶしを握りしめた。心を読んで、その言葉が真実だと理解したのだろう。研究員はぐったりと床に伏せ、動く様子はない。
「……行くぞ」
 ローレンスは少年の細い背中に声をかけた。返答はない。
 少年は赤いランプを点すポッドを悲しそうに見つめたあと、そっと両目を閉じた。
「ごめん、みんな」
 それだけ言うと、少年は血で染まった部屋の入り口を通って外へ出た。まだ警報音は鳴り響いており、一刻の猶予もなかった。ドローンは少年に壊されてしまったのが痛かったが、破壊工作用に用意していた道具がまだ残っている。まずはここから出ることが先決か。考えていると、少年が声をあげた。
「おれについてきてください。こっちです」
「わかるのか?」
「たまに部屋の外へ連れて行かれてました。目隠しされてたけど、おれにはどこの道へ行けばいいのかわかります」
 ローレンスは一瞬だけ疑問を感じたが、少年の真面目そうな目に惹かれて言うことを聞いた。裾の長い医療用ガウンを翻してよたよたと走る少年の後ろ姿は細い。そのとき、ローレンスの脳裏にアコースティックギターの音色が響いた。
(ねえ父さん! 見て! C#、鳴ったよ!)
 記憶の中の息子は、喜びに溢れた茶色の目を輝かせている。自分と同じ栗毛の頭を撫でたのは、いったいどのくらい前のことだっただろう……。
「早く、こっちです!」
 少年の声に、ローレンスははっとして現実に戻った。息子の幻は消え、目の前には先ほど会ったばかりの、いけすかない生意気な子どもが立っている。息子とは似ても似つかなかった。ローレンスはライフルを構えたまま、少年の後を追った。
 赤く点滅する廊下を奥へ向かって走る。すると、五人ほどの武装した教団員が立ち塞がった。少年の首根っこを掴み、引き寄せる。少年の立っていた場所に大きな音を立てて銃弾がめり込み、粉々になった床材が空中にまき散らされた。
「なにするんですか!」
「なにって、おれが助けなきゃおまえは蜂の巣だったぞ」
「あなたに助けてもらわなくても、おれはサイキックです。自分でなんとかできます」
 ――このガキ……。
 と罵りそうになった瞬間、考える暇など与えないとでも言うかのように銃弾が飛んできた。遮蔽物を探そうと首を巡らせると、上から分厚い防火扉が下りてきた。銃弾を防ぐ目的のものではないので気休めだが、これで時間は稼げる。
「ナイスだ、軍曹!」
 ここにいない相棒に向けて叫ぶ。ハッキングの達人である相棒は、研究所のシステムに介入して守ってくれたのだ。
 そして相棒はバイザーに脱出ルートを表示してくれた。四階。ここにたどりつきさえすれば脱出できる。瞬時にそこまで頭を巡らせたローレンスの背後に、殺気がみなぎった。
 ショットガンを構えた研究員が、こちらへ銃口を向けている。避けようとパワードスーツの機能を最大にした瞬間、放たれた散弾が見えない壁にめり込むように止まった。
 驚いたのはローレンスだけではなかった。撃ったほうもうろたえたが、もう一度銃弾を放つことはできなかった。見えない力に吹き飛ばされ、気を失って倒れ伏してしまったからだ。
 ローレンスが周囲を見ると、少年がじっとこちらを見ていた。その唇を片方だけつり上げて、目には明らかな嘲笑が浮かんでいた。
「ここを出るまで、おれの壁になってもらわないと困るので」
 ――せいぜい生きていてください。
 唇の動きをローレンスは見逃さなかった。思わずこめかみがぴくぴくと震える。
「このクソガキ!」
 今度は遠慮なく叫んだ。まったく、仕事でなければ、こんなクソガキのお守りなんぞごめんだ。

 追っ手をかわしながら、ローレンスと少年は非常階段に続く四階の部屋へとたどり着いた。
 広めのそこは倉庫として使われているようで、埃のたまった荷物が無造作に置かれている。
 部屋の隅にあった扉の前に、少年が立った。年期の入った鉄製のドアで、ところどころが錆びている。
「これが非常階段です」
「おまえ、あの部屋にずっといたんだろう? 信用できるのかね」
 ローレンスがいぶかしげに言うと、少年は気分を害したのかこちらを睨みつけた。
「逃がしてくれるなんていうあなたを騙すつもりはありませんから、ご心配なく。透視をして少しだけ覗いたんです。あの部屋程度の遮断壁じゃ、おれの能力は遮れません」
 ずいぶんと自信に溢れた物言いだったが、先ほどのサイコキネシスの様子からして、この少年が強力なサイキックであることは疑い得なかった。少年は続ける。
「利用しろって言ったのはあなたでしょう。その言葉通りにします」
「いいだろう。……後ろは俺が守る、先に行け」
 少年はふんと鼻を鳴らし、内部からロックを解除してドアを開けた。開けた瞬間に砂が入り込んでくる。非常階段はそこそこの高さがあり、一瞬だけ少年は怯えた表情をしたが、すぐ意を決して階段を降りた。鉄製の簡素な階段は歩くたび音を立てたが、ローレンスの耳はその音が増えたのを見逃さなかった。下から数人の足音がする。
「おい、止まれ」
「なんでですか? 急いでるのに」
「下から追ってきてる。降りたら鉢合わせるぞ」
 え、と少年は困惑した。そうして不安そうに眉を下げるが、すぐに表情を変えた。
「そんなの大丈夫です。おれの能力で倒せばいいんだから。あなただって銃を……」
「今は逃げることが先決だ。これ以上大人数に構ってる暇はない」
「でも……!」
 今まで被検体として人間以下の扱いを受けていたであろうに、勝ち気な少年だ。向こう見ずなのかもしれない。半ば呆れながら、ローレンスは視界の端に光ったものを見逃さなかった。少年が食ってかかる。
「じゃあ、どうしろっていうんですか。戻ったって同じです」
「飛び降りろ」
「え?」
「飛び降りろって言ってる」
 少年が目を見開いた。その表情があまりにも間抜けなので、ローレンスは場違いにも吹き出しそうになった。その考えが伝わったのか、少年は肩をいからせて怒鳴った。
「あ、頭がおかしくなったんですか!」
「いいから言うとおりにしろ、クソガキ!」
「ガキ扱いしたって、ここから飛び降りるなんて絶対……うわあっ!」
 問答は無駄だと悟り、ローレンスはライフルを背中のホルダーにはめて、少年の腰を抱え上げた。少年は手足をばたつかせて暴れたが、ひょろひょろした栄養不足の子どもを抑えられないほどやわな人間ではなかった。そのまま両肩で担ぐ。救助活動などで意識のない人間を持ち上げるときの要領だった。
「やめろ! 離せってば!」
「暴れると落ちるぞ」
 むしろ落としてしまったほうが溜飲を下げられるのかもしれないが、もちろんそんなことはしなかった。
 罵倒してくる少年をうまくあしらいながら、ローレンスは階段の柵によじ登った。そのとき、砂漠に差す太陽の光を受けて、一台のトレーラーが砂埃を上げて走ってきた。
 トレーラーは九メートルほどの大きな車体だ。重厚なボンネットの後ろに、銃弾を通さない素材でできたカーマインのボディが日を反射していた。トレーラー部分の上部には四方に柵がついていて、特注で設置したさまざまな武装が取り付けられている。パワードスーツとリンクさせると威力を発揮する、高火力の武装ばかりだった。
 タイヤは六つあり、砂漠や荒野を快適に走れる全輪駆動だ。大きな車体が、砂をかき分ける音を立てて眼下に停止する。そのときには、追っ手はもうすぐそこまで来ていた。
「よくやった、軍曹」
 そうして、ローレンスは少年ごと空中に身を躍らせた。
「うわああああぁ――っ!」
 少年の悲鳴が、乾いた砂漠にこだました。ローレンスは神業に等しい身体能力で、トレーラーの天井に着地した。よけいな荷物があるせいで着地後の重心が怪しかったが、非凡な反射神経で持ちこたえた。その瞬間、非常階段が炎に包まれた。耳をつんざくような音があたりを包み、崩れた階段の瓦礫と埃が周囲へ散乱する。見ると、ロケット弾のランチャーを脇に抱えたコリンズが、バギーを器用に操りながらこちらへ向かってきていた。
「相変わらず派手すぎるだろ」
「そこから飛び降りるおまえに言われたかねえな」
 通信ごしに軽口を飛ばし合ったあと、ローレンスは走る車体の上で目を回している少年を解放した。てっきり罵倒されるかと思ったが、今はそれどころではないらしい。不快そうに口元へ手を当てた少年は、か細い声でこう言い放った。
「めちゃくちゃだ……」
「サイキックなんて使うおまえのほうがめちゃくちゃだよ」
 少年は返事をしなかった。
「おい、安心するのは早いぜ。迎撃しろ!」
 ヘッドセットにコリンズの叫び声が響いた。猛スピードで走るトレーラーの上で背後を見ると、五台の四輪駆動車がこちらを追尾しているのが見えた。手にはさまざまな銃火器を持っている。だが、ローレンスに焦りはなかった。
 うずくまる少年に防弾仕様のシートをかぶせる。少し厚めの布のようなものだが、弾を防ぐ上に遮熱効果もある。これがあれば、灼熱の砂漠の下でもしばらく保つだろう。J.M.Cの開発部が作り上げた新作である。
「それを被って伏せてろ!」
 少年が手すりをつかんで伏せたのを確認し、ローレンスはトレーラーの上に設置しているガトリング砲を構えた。引き金を引くと、けたたましい音を立てて銃弾が放たれた。五台のうち一台の運転手を仕留め、もう一台のタイヤを破裂させた。もう一台をバギーに乗ったコリンズが爆発させる。
 だが、難を逃れた車両からロケット弾が放たれるのが見えた。ローレンスは舌打ちをした。相棒の運転ならば心配していないが、よってたかって連射されるとうっとうしい。
「おい、どこかに掴まってろ!」
「えっ、ちょっと……うわあっ!」
 少年が悲鳴をあげる。そのたびにトレーラーが派手にスピンした。人間離れした運転技術により、トレーラーは難なくロケット弾を避けていく。それに紛れるように、トレーラーの上についているハッチが開いた。カタパルトから射出されようとしているのは、対戦車用のミサイルである。目標に向けてのコントロールは相棒がすべて担う強力な兵器だ。
「耳を塞げ!」
 少年が耳を塞いだのを確認して、ローレンスは合図を出した。ミサイルが発射され、軌道を描いた弾は一台に命中した。その爆発に巻き込まれ、もう一台も大破する。
「軍曹、やっぱりおまえは最高だよ」
 相棒の得意げな表情が浮かぶ気がした。対して防弾仕様のシートをかぶった少年のほうはというと、あまりのことに目を回していた。
「最悪だ……」
「死ぬよりはましだろ」
 もう反論する気もないらしい。少年は日差しを避けるようにうずくまった。