コードネームMONDAY 上巻 本文サンプル

「ブラックバード、どうしたの?」
 彼――サミュエル・ローレンスは、骨伝導ヘッドセットを介して聞こえてきた声に意識を戻した。彼の目の前にあるのは妻と息子の遺体ではなく、スコープを通して見た砂地獄だった。もうここは五年前のネオ・マンハッタンではなく、そこから遠く離れた、かつてはサンディエゴと呼ばれた地にある研究施設だ。過去に栄華を誇ったサンディエゴ湾はすでに干からび、大きな穴でしかなかった。温暖だった地も今は乾ききった荒野か砂漠となり、水は金よりも貴重なものとなっていた。ローレンスはパワードスーツに包まれた肉体を微動だにせず、スコープを物言わず見つめていた。汗や排泄物を自動的に飲料水へと変えてくれるスーツが、かすかな駆動音を立てて作動している。全身を覆い、体にフィットしたスーツにはさまざまなオプションパーツがつけられる機構がある。ゴツゴツとしていて、人間から黒い岩が生えているようにも見える。この機能が、ローレンスをさまざまな危機から救ってくれた。もはやなくてはならないものである。
 スコープの向こうには砂に埋もれた建築物が見える。かつて街だった場所にあった建物を再利用したらしい研究施設は、半分砂に埋もれていて廃墟にしか見えない。しかし彼はボスからもたらされた情報により、ここがヘヴンズ・ラダーの研究施設兼アジトだということを知っている。
「本当にこんな辺鄙な場所にあいつらがいるんですね、ボス」
「あら、このわたしを疑うの? 大尉どの」
 こんな砂漠には場違いの、艶めかしい女の声だ。この声の主こそローレンスのボスであり、世界の重要人物であるミス・ジェーンである。
 ジェーン・ミリタリー・セキュリティ。通称J.M.C。世界の中心ともいわれるネオ・マンハッタンという都市においてのみならず、広い北米大陸における輸送網の護衛を担っている民間軍事会社だ。
 大陸全土が不毛の地となった大戦から百年ほど。人々は残された遺構を活用した。貴重なものとなった水と物資の輸送に関する護衛や、街を襲う突然変異の動物たちの討伐。現代におけるバウンティ・ハンターと呼ぶものもいるが、ローレンスはいつも鼻で笑っていた。
 ネオ・マンハッタンは、ロング・アイランド湾に浮かぶウォーターフロントだ。かつてのマンハッタンは半島であったが、大戦による汚染で住めなくなり、人々は建設されたばかりだったウォーターフロントに居を移した。世界でも数少ない巨大な浄水施設や発電所が存在するネオ・マンハッタンは、人類の最後の砦と言われる。
 その中でも高度な作戦をこなせるエージェント。それがローレンスの職業だった。
「その呼び方はやめてくださいよ、ボス」
 呆れた声で嫌がるそぶりを見せると、ミス・ジェーンはふふふ、と笑った。完全に部下をからかって楽しんでいるという雰囲気だ。ローレンスは眉間にしわを寄せる。自分が大尉どのと呼ばれていたことなど、もう六年も前の話だ。
 六年前。ローレンスはこめかみをひくつかせた。六年前のクリスマス、通称フォールオブマンデイは、カルト教団ヘヴンズ・ラダーがネオ・マンハッタンの街において同時多発的に自爆したテロ事件のことだ。機能を寸断された街は地獄絵図となり、多数の死傷者が出た。大戦後における最大の人災といわれている。
 その渦中にいたミス・ジェーンとローレンスも、巻き付いて離れない蛇のごとく教団を追っていたのだ。六年かけてやっと尻尾を掴んだ。これは願ってもない好機だった。
「とにかく、あなたたちの任務はあの研究所にいる被検体を保護することよ」
「被検体……」
 ローレンスがつぶやくと、ミス・ジェーンはそう、とうなずくように言った。
「そう、サイキックに関するものよ。彼ら、どうやらそこで実験をしていたようね」
「なんのために?」
 ローレンスがかぶったヘルメットのバイザーに、走馬灯のように研究所内部の地図が展開される。地上四階立て、地下には礼拝堂があり、決まった時刻になると研究員含む信者たちはここへ集まる。対象がいると思われる場所は三階の最深部にある封鎖された区間である。
 ローレンスはそこでまじまじと目の前の建物を見た。外壁はボロボロで崩れており、基礎がむきだしの部分もある。こんなうらぶれた廃墟で、人体実験が行われているとは思えなかった。
 そこで、バイザーの別ウインドウに新しい画像が表示された。それは、まるで吊り下げられた塔のようなシルエットをしていた。
「天国への扉。人々はこれをそう呼んでいる。知っているわね?」
 ローレンスはうなずいた。
 この世界の遺構に、天国への扉と呼ばれる軌道エレベーターがある。南米大陸の赤道上にある大戦前の建造物だ。当時世界の覇権を握っていた大国が建造したもので、その頂上には世界中の神を統べる神がいるという。なんとも物語めいた話だった。しかし天国の扉には太陽光発電から得た大量のエネルギーがあり、これを得れば力を盛り返せると大戦を生き残った各都市――ネオ・マンハッタンやニューロサンゼルスは息巻いている。
 大きな力を持てば、過去の大戦を繰り返してしまうことは確実だ。それなのに人間は学習しないものだとローレンスはふと思ったが、彼は黙ってボスの話を聞いていた。
「天国の扉の頂上には、この私でも内部を観測できないブラックボックスのような場所がある。そこを我々は通常、ヘヴンズ・ガーデンと呼んでいる。あの教団どもはそこを神がおわす場所と解釈しているようね。そして、そこに至ることができるのは選ばれし人間だけだとも」
「その選ばれし人間とやらと、この任務がどう繋がるんです?」
「話は最後まで聞きなさい。教団はその選ばれし人間を集めているの。サイキックをね」
「サイキックを? でも、そういう連中は少数派でしょう」
 そう、死んだ息子のような。息子には、生まれながら心を読む能力があった。
 ローレンスは息をついた。ミス・ジェーンが話を続ける。
「生まれつき力の強いサイキックをオリジナルとして、複製を作っているらしいのよ。身寄りのない子どもを使ってね。あなたにはそのオリジナルの保護を頼みたいの」
 子ども。その単語に眉が上がった。脳裏にギターを抱く息子の死体が蘇る。
 ――なあ、ジュード。心配いらないさ……。
 守れなかった過去の自分を恥じるように、ローレンスはこぶしを握った。そして、手の中の狙撃用ライフルを構え直す。
「俺が断れないとわかって言ったのなら、相変わらず策士ですね、ボス」
「ヘヴンズ・ラダーをのさばらせるわけにはいかないのよ。そのためなら、あなたの良心だって利用してみせるわ。私はこの会社のボスだもの」
「それでこそボスですよ。そうと決めたら、最後まで俺を利用してください。最大限にね」
 ミス・ジェーンの笑う声がする。話を途切れさせるように、違う男の声が通信に割り込んだ。
「こちらペニーワイズ。準備ができたぜ」
「わたしはここからだと介入できない。武運を祈っているわ。始めてちょうだい」
「了解」
 ローレンスは返答し、ライフルを構える。
 十字型をした照準の真ん中に獲物を合わせる。砂だらけの門の前にいる見張りのひとりを捉えたローレンスは、そのまま引き金を引いた。銃から放たれた銃弾は百メートルほどの距離を貫き、見張りの頭に命中した。もう一度引き金を引く。もうひとりの見張りも倒れ、入り口には誰もいなくなった。定期連絡がくれば異常が察知されてしまうが、それはまだ先の話だった。
「いやあ、いつ見ても爽快だな、ブラックバード」
 同僚――マット・コリンズは、呆れたような声でローレンスのコードネームを呼んだ。黒い鳥。彼の崇拝する人々が歌うレコードの一枚から取った名は、思いのほか耳に馴染んでいる。
 仲間には返事をせず、ローレンスは体にかぶせていた砂漠用迷彩を解いて立ち上がった。長い間寝そべっていたので、迷彩柄の布には大量の砂が積もっていた。ざあ、と音を立てて砂が落ちていく。長距離射撃用のライフルを持ち上げケースに仕舞うと、それを傍らに置いてあるコンテナに入れた。コンテナは大きな鉄の箱のような形状をしており、大の大人が二人ほど入れるぐらいの大きさがある。迷彩柄で塗装してあるので、目立ちにくいのも利点だった。
 そしてコンテナを起動させ、側面のレバーを引いた。そのとたん、コンテナが浮遊して南を目指し飛んでいく。ローレンスの拠点であるトレーラーに飛んでいったのだ。過酷な環境でも動き、呼べばこちらの位置を察知して武器を届けてくれる、便利なコンテナだ。飛び去るコンテナを見送り、ローレンスは振り返った。
「突入する」
 砂に埋もれた墓場のような建物を見やり、ライフルを抱えて足を踏み出す。ここからは徒歩だ。お供はプロペラのついた監視用ドローンだ。
「ペニーワイズ了解」
 同僚がなぜピエロの名を選んだのかはわからないが、ローレンスは存外気に入っていた。通信ごしに聞こえる軽口は、まさに道化に相応しかった。
 流砂に足を取られないように走る。遮蔽物はほとんどない砂漠であるから、ぐずぐずしていれば見つかるかもしれない。監視カメラと防衛システムはドローンを介して、トレーラーにいるもう『一匹』の相棒が抑えているが、早いに越したことはない。
 近づいてきた研究所は側面がガラス張りの建物だったが、今やほとんどが砂に覆われていた。どうやら大戦前に建造されたもののようだ。見張りの死体を通りすぎ、ローレンスは入り口をくぐった。
 内部は外側から見た印象とは真逆だった。内装は白一色で、薄気味の悪い清潔感もあった。ところどころに飾られている塔のようなマークは、ヘヴンズ・ラダーの崇める軌道エレベーターと水を表す意匠だ。ちょうど今は礼拝の時間のはずで、人の気配は薄い。
(ここにいるのか)
 ローレンスは背負っていたライフルの安全装置を外し、構えた。心は不思議と凪いでいた。怒りと悲しみを通り越した先にある無我の境地だ。
「右奥に階段がある。そのまま上へ」
 コリンズの声がした。指示されたとおりに右の通路を走り抜け、階段を探した。途中で巡回中の見張りをやり過ごし、上階へと続く階段を発見する。コリンズがあらゆる手段を駆使して手に入れた研究所の地図は、すべて正しかった。まるで地獄の入り口にも思える階段を上がると、厳重に閉じられた大きな扉があった。IDカードを通すタイプの耐火扉だ。爆薬は持ってきていたが、それぐらいではびくともしないだろう。
「軍曹、頼む」
 ローレンスが、コリンズとは違う唯一の相棒に告げると、傍らで浮遊していたドローンが扉の前に移動した。見た目は十字のような形をした胴体部に、それぞれ四つのプロペラがついている。ローレンスの指示通りドローンは胴体部からアームを伸ばし、扉の端末部分に接触させた。少しの間があって、ランプが緑に変わった。がこん、と音を立てて扉が開く。ローレンスはドローンを伴って素早く侵入した。上のフロアは上階と違って砂はあまり入り込んでいなかったが、薄気味悪いほどの清潔感と無機質さは同じだった。いけ好かない場所だとローレンスは嫌悪の目であたりを見る。
 ――だが、あの男の墓場としては似合いだ。




「そこを右に曲がって、一番奥の部屋だ。では、陽動を始める」
「了解」
 ヘッドセットから聞こえるコリンズの言うとおりに、ローレンスは研究所の明るい廊下を音を立てず走っていた。建物の中は日光が入らないが、電気の明かりは煌々と灯っている。どこかに発電機があるのだろうか。ネオ・マンハッタンなどの都市以外の場所に発電機があるのはまれだ。どこかに浄水器か水もあるのだろう。教団の持つ財力がうかがい知れた。
 角を曲がる際、角度をつけて前方に敵がいないか確認しながら進む。監視カメラの前を通っても警報は鳴らない。ハッキングの成果か、監視は今ごろ改変された同じ映像を見ているのだろう。
 遮蔽物に身を隠し、ここでも巡回する見張りをやり過ごす。少しすると、下階から大きな爆発音がとどろいた。コリンズの陽動だろう。赤色灯がともり、けたたましい警報音が鳴り響く。見張りたちが焦りだし、全速力で音のしたほうに走っていくのが見えた。
 そろそろシステムを掌握している軍曹のこともばれてしまうだろうが、どうやらうまくいったようだ。ローレンスは周囲を確認し、遮蔽物から飛び出した。任務の遂行は迅速に。ローレンスはライフルのグリップを握り直し、足音を忍ばせて走った。音を立てず歩くことは、治安維持隊出身の軍人にしてみれば基本的なことだった。
 しばらくまっすぐ行くと、厚い金属製の扉があった。古い建物に反してここだけは真新しかった。部屋自体をあとでユニットごと付け加えたのだろう。分厚い扉は多少の爆薬や銃器ではびくともしないだろう。耐火材が充填されているであろう扉は、耐火性も十分そうだ。
 声をかけなくても、もう一匹の相棒は察したようだった。少しの間をおいて、重々しい扉のロックが解除された。丸いハッチのような扉が開き、ロック用の金属棒が伸縮して収まった。
 開いた扉に突入することはせず、壁際に背中をつけて内部をうかがう。人がいる気配はなかった。ドローンから何も合図はない。内部に危険がないことを確認し、ローレンスは部屋に足を踏み入れた。
 広い部屋だった。真っ白な壁を触ると柔らかかった。四方を弾力性のある壁で囲んでいるらしい。天井から青白い明